読書記録です。
「学問のすすめ」。慶應義塾を創設した福沢諭吉著。(一万円札でおなじみの。と言ったら怒られそう。)
学生時代になんとなく、福沢諭吉と言えば「学問のすすめ」を書いた人と覚えてきましたが、実際に「学問のすすめ」を読んだことはないなぁと思いましたので、今回この本を選びました。
しかしながら、原文のままで読める自信がなかったので、河野英太郎氏の「現代語訳 学問のすすめ」を読むことにしました。
感想としては、現代語訳にしてよかったと感じています。イメージしやすい今風の言葉やワードを使用しての現代語訳なので、原文の雰囲気は味わえなかったですが、兎にも角にも、読みやすくてわかりやすい。
著者の解説やコメントも邪魔にならない程度に欄外に添えてあり、全て読む必要はないけれども、解釈が難しい部分の補助的役割としてワタシは利用しました。
約140年前明治時代に上梓された書籍ですから、時代背景が違うので現代と前提が異なるところも若干ありますが、なぜ学問をするのか?何を学問するのか?学問をしたらどうなるのか?という普遍的な内容で、現代にも十分通ずるところもあるので、社会人・学生問わずに読むべき本ではないだろうかと思いました。
むしろ、なぜこれまで読まなかったんだろうと思うくらい。明治時代に書かれたとは思えないほど、すんなり読めた事が驚きですね。
結果の平等ではなく権利の平等
「学問のすすめ」といえば、最初の一文が有名ですよね。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
明治政府に代わり、江戸時代の身分制度が廃止され四民平等となり、身分の上下もなく何物も平等に扱われる世の中になりました。
しかし、賢い人もいれば愚かな人もいる。金持ちもいれば貧乏もいる。
この違いはどこにあるのか?それは、学んだか学んでいないかの差である。
役割や立場を全うするには、能力や人間力、行動が必要であり、これを基準として平等に人は評価されるべきである。学問が必要な理由は能力や人徳を身につけるためである。
明治時代、多くの人たちのモチベーションを爆アゲした「学問のすすめ」ですが、現代の考え方とあまり変わらないと思いませんか?
賢くなるには勉強しよう。金持ちになりたかったら勉強しよう。
江戸時代には限られた人しか学問を受けることができず、読み書きすらもまともにできない人たちがたくさんいたんだと想像します。そういう人たちに対して、政府が権力を乱用して権利を侵害していたんだろう。
そこから脱するには学問が必要。学問をすれば無知につけ込まれることもないし、自分自身の努力次第で豊かに暮らせることができると説いたのが「学問のすすめ」。
きっと、「学問のすすめ」は明治になって四民平等って言われてもどうすればいいの?って戸惑う人たちに対して、学問という希望を示した本だったはず。
「世の中のルールは頭の良いヤツにとって都合のいいように出来ている。頭の悪いヤツは気付かないうちに搾取されるのが世の中のシステム。搾取されないためには勉強するしかない。」だったかなぁ。ドラゴン桜に出てくるこのセリフってモロ「学問のすすめ」じゃない?って読んでる最中に思いました。
また、この本に出てくる平等は「結果の平等ではなく権利の平等」。
本書では「誰しも平等」と言いながら、「学んだか学んでいないかの差」とも書いています。つまり、人の権利は平等、権利の行使の結果は不平等であるということ。
例えばそれは、頑張った結果、絶対に報われるとは限らないという解釈ではなく、結果は平等じゃなくとも、ワタシたちはいつでもチャレンジできる権利を平等に持っているんだというポジティブな解釈です。
権利の行使と結果の間には、努力や情熱や没頭などいろんな言葉が入ることによって、結果の差を埋めることができるんでしょうね。
いつでもチャレンジできる権利を行使して、弛まない努力をすること。
誰しも権利は平等で、それをどう使おうとそれぞれの勝手。でも、少しでも豊かに暮らしていくためにも学ぶことに権利を使おうよ。
という自己啓発から始まる「学問のすすめ」は本の表紙に書いてある最高に売れた「ビジネス書」という表現がしっくりくると思いました。
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