食事の最後、息子Bがお茶碗にお茶を入れ、縁にこびりついた米粒を集めて残さずに食べてました。
その姿を見てワタシは、「ほう。」と思いました。
反対にその行為に対して家内は、「下品だから他所でしてはいけない」と注意していました。
当の息子は学校の給食でもやっているようで、どうやら過去の担任の先生にそのように教えてもらったらしいのです。
家内からこの行為について「どう思う?」と聞かれましたので、「確かにTPOを弁えてないと他人を不快にする行為だけど、下品なことだと切り捨てることもない」と答えておきました。
お寺のお坊さんは食事の最後、お茶碗にお湯を注いで沢庵を使ってキレイにお茶碗を拭い、そのまま飲み干して沢庵を最後にいただいて食事を終えると、教えてもらったことがあります。
食べ物を粗末にせず残さず食べるという心得と昔からの作法ですよね。
この話を家内と息子Bにしました。あとは各々が考えればいいと思います。
知らないよりも知っていたほうがいい
ワタシが思うに、「知っているか」「知らないか」で大きく感じ方が変わりますよね。この手の話は。
お茶碗にお湯を注ぐお寺の作法を知らなければ、下品に見えるだろうし、知っていれば、下品に見えても許容できる心ができるだろうし。
だから、ワタシは息子Bが食事の最後にお茶碗にお茶を入れて飲み干す作法の起源を知っているのかな?知らないのかな?というほうが気になっていました。知らなかったみたいですけどね。
学校で習うこと以外は、自分で「知る」事を選ばない限り、知ることができないとおもいませんか?
特にこうした昔からの言い伝えや昔の習慣や生活の知恵というものは、時代の変化と共に知っている人が少なくなりますし、知る機会も減りますし、極端に言えば知る必要もないと思います。だって、絶対今のほうが便利で合理的ですもの。
でも、どんなことでも、些細なことでも「知らないよりも知っていたほうがいい」とワタシは思います。
知っていることが多いと、それだけ自分の行動や考えに幅ができて、自分に自信が持てる気がします。
子供が知るきっかけを作るのがワタシの役目
もしかしたら、前にも書いたかもしれませんが、「子供にそんな難しいこと言ってもわからない」という大人をよく見かけますが、それは子供を見くびりすぎていて、子供は子供なりに理解をしようとします。
だから、「難しいことを言ってもわからない」のなら、「わからない」を大人が教えてやればいいのです。それが子供が知るきっかけになるとワタシは思っています。
大人が教えられないから「難しいことを言ってもわからない」ままなんです。
今回、食事の最後にお茶碗にお茶を入れてこびりついた米粒を集めて飲み干すという作法の起源を息子Bは知ることができました。
それを覚えているかどうかはわかりません。本人次第ですもの。
でも、これから生活していく中でふと、「あっ。これ聞いたことあるな。オトンがそんなこと言ってたな」と彼の頭の片隅に残っていたら、ワタシは嬉しく思います。
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