この1ヶ月ほど、「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ」のフレーズとメロディを繰り返し耳にしております。
息子たちが、Amazon Musicで繰り返しストリーミングして、一緒になって歌っているからです。
最近では、「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ」のサビが終わると、「オメェが一番うっせぇわ」と息子たちに悪態をついております。
さて、この「うっせぇわ」を聞いていると、この手の表現方法も我々の世代と変わったなぁと思います。
この「うっせぇわ」という曲がどんなものかと言うと、「社会のレールに乗っかって、無難に過ごすことが良しとされる社会、または、その社会に馴染んでしまっている人たちに対しての嫌悪感と横並びで個性のない社会の型にはワタシはハマらないという反抗心を表現した曲」といったところでしょうか。
どの世代にも、このような反政府主義や反骨精神・社会風刺などの思想を直接的な歌詞に下ろして、攻撃的な音階に乗せて表現している類の曲というのは存在していたし、特に十代の青春期には、親や学校や社会に感じている不満の感情を代弁してくれるような拠り所になったのではないでしょうか。
我々の世代の代表格と言えば、尾崎豊とかブルーハーツ。長渕剛とかですかね。他にもパンクな人たちがたくさんおりましたが、代表格ということで。
だから、この手の曲を十代の子どもたちが見つけることに不自然を感じることはありません。「世代によって違うパンク精神」とでも言いましょうか。
しかし、我々の世代とは違うなぁと思うことがあります。
不満に対して主張せず、関わりを拒否する現代的な歌詞
「うっせぇわ」の歌詞を一部引用しますと、
一切合切凡庸なあなたじゃわからないかもね
頭の出来が違うので問題はナシ
くせぇ口塞げや限界です
絶対絶対現代の代弁者は私やろがい
アタシも大概だけどどうだっていいぜ問題はナシ
それぞれ、サビのフレーズですが、どこをとっても「あなたと私は違うし、私は私の正義を通すんで、うっせぇ事言うなら関わるな」という、超個人主義な思想の歌詞だなと感じます。
不満に対して主張はなく、「私は私、あなたはあなた。」という現代社会を思わせる考え方、もっと言えば、「私が主張したところで、何が変わるわけでもないし」というような、社会に対しての諦めが表現されているようにも思います。
我々世代は不満に対して主張する歌詞に共感した
対して、尾崎もブルーハーツも長渕も、根本的には「うっせぇわ」と同じような思想を持っていますが、異なるのは、対話や未来への希望や政治があったところです。
尾崎は「社会は不自由ばかりじゃないか!自由とはなんだ?大人よ教えてくれよ」と。
ブルーハーツは「社会のレールに乗る必要はない!未来は僕らの手の中にあるんだ」と。
長渕は「アメリカの傘の下で浮足立ってんじゃねえよ、日本」と。
それぞれのアーティストが、社会に持つ不満を音楽にして、それぞれの主義主張を表現して、共感した聞き手に衝動と行動を起こさせるエネルギーがあったんじゃないかと思います。
最後に
ワタシが感じた「世代によって違うパンク精神」について書きましたが、どっちが良くてどっちが悪いとは全く思いません。あくまで違いです。
それぞれに刺さる音楽と歌詞に傾倒すればいいと思います。
言えることは、共通してどの世代にも、パンク精神を駆り立てる音楽が存在しているということ、そして、その表現描写は時代の影響を色濃く反映するんだなということです。
今日は特に重要なところもないので、強調も下線もナシ。少し音楽を知ってる風にイキって書いてみました。あしからず(笑)。
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